「日本兵の遺体が山積みに」…ロシアの“英雄”となった99歳の元ソ連兵“満州の惨状を証言”―ウクライナ侵攻への憤り #戦争の記憶
数日前から塹壕生活 第1陣として満州侵攻へ
トリンコフさんが初めて前線に赴いたのは1945年8月9日。ソ連が関東軍の支配していた満州や北方領土の占守島などへ大規模な侵攻を開始した「満州侵攻」のときで、約30人の歩兵部隊にいた。
この対日参戦は、ヤルタ会談で結ばれた秘密協定によるもので、満州侵攻は日本の降伏を早める一因となったとされている。
「日本との開戦前、アムール川(黒竜江)沿いの塹壕で数日間生活しました。100メートル離れるとただの土の丘にしか見えません。向こう岸には日本兵の姿が見えていました」
ソ連の兵士たちは船でアムール川を渡り始めた。広いところでは川幅が10キロにもなる大河。増水で流れが速く、流木に当たって沈む兵士もいた。
「開戦前から多くの部隊が動員され、装備も兵力も十分でした。川を渡っている最中に戦闘機が爆弾を投下する音を聞きました。私たちが川をわたると日本軍は逃げていて、抵抗は受けませんでした 」
トリンコフさんは満州の主要都市ハルピンを目指し、野営しながら行軍した。
「日本兵の遺体の山いくつも」目にした惨状
ソ連軍の150万人に対し、関東軍は半数以下。さらにソ連軍の奇襲ともいえる攻撃に不意を突かれた関東軍は十分な抵抗もできず、戦闘は約1か月で終結した。
現地では兵士だけでなく、日本の民間人も多数犠牲となった。トリンコフさんは日本軍と直接交戦することは1度もなかったが、戦闘の爪痕は目のあたりにした。
「他の部隊では激しい戦闘があり悲惨な状況でした。私も日本兵の遺体の山をいくつも見ました」
一方で、地元の中国人たちからは熱烈な歓迎を受けた。
「集落を通過するたび、みんな歓声を上げて、日本軍からの解放を喜んでいました」
兵士として戦うことに疑問はなかったのか――。率直な問いに、トリンコフさんは少し考えたあと静かに答えた。
「今でも答えるのは難しいですが、兵士としては戦闘命令が出れば従うだけでした。兵士の使命は任務を忠実に遂行すること。他の考えを持つ余裕はありませんでした」