【語り継ぐ 戦後80年】恐るべき核兵器…進む被爆者の高齢化―わが子は悪性リンパ腫を患い若くして他界「本当に悔しくて…苦しみがずっと続く」ヒバク体験を伝えることの難しさ、その思いを皆が受け止めるには
2025年は戦後80年、節目の年です。
世界で唯一の被爆国である我が国にとって、その体験を語り継ぐことは大きな課題です。
高齢化が進む被爆者の活動と、その思いとは。
1月8日、ノーベル平和賞を受賞した日本原水爆被害者団体協議会の代表らと石破首相が面会しました。
被団協側は日本が調印していない核兵器禁止条約の会議へのオブザーバー参加など、核廃絶へ向けた取り組みを要望しましたが。
「被団協の要望をきちんと伝えるというような時間は設けられていないということでしたので、総理の独壇場みたいになってしまったかなと、私は強く反省しています」(被団協 田中 熙巳 代表委員)
石破首相は態度を明言せず、対話に期待を寄せた被団協の願いはかないませんでした。
「被爆80年、戦後80年、核兵器を今年こそなくす決意をかためて、きょう緊急宣伝行動をします」という力強い声。
1月6日、JR札幌駅前で行われた核兵器廃絶を求める署名活動です。
その中で「人類生存と地球の未来には、核廃絶しかないと私たちは思っています」と訴えかけるのは宮本須美子さん、87歳です。
「情報が何もないから、防空壕に入っていても何が起きているのか分からないまま、何時間か防空壕で過ごした」(宮本さん)
原爆投下から5時間がたった午後4時ごろ、防空壕から出ると見たことのない光景が目前に広がりました。
「静かで、ちょっと薄暗い感じなんですね。『おかしいね』って。長崎の午後4時ごろなんて、まだ太陽がいっぱい照っていますから、本当に『ええっ』という感じ。家に帰る途中にトンネルがあって、そこから出てくる人たちの髪の毛が縮れていたり、洋服が焦げたりしていた」(宮本さん)
2日がかりで、約30km離れた父親の実家に避難しました。
その道中でも。
「たくさんの人が重なって亡くなっているのを見ましたが、悪臭に悩まされました。吸い込んだ臭いで、おなかが何にも飲まないのにパンパンになった感じでした」(宮本さん)