あの日広島の街を焼き尽くした「原爆の火」 80年後の今も遠く離れた札幌で灯し続ける理由…亡き父親の“遺言”を次世代に語り継ぐ 被爆二世の取り組み「一緒に伝えていってくれませんか」
2025年は戦後80年。
戦争経験者の高齢化が進んでいます。
悲惨な体験をどのように語り継ぐのか、その取り組みをシリーズでお伝えします。
札幌市西区の日登寺にともる原爆の火。
80年前、広島市で被爆した兵士がカイロに移して、故郷の福岡県に持ち帰ったものが種火となっています。
「平和の象徴としてともしたい」と、1989年に分けてもらいました。
その炎を特別な思いで見つめる人がいました。
札幌市に住む川去裕子さん、67歳です。
父親が被爆した被爆二世で、18歳まで広島県で暮らしました。
「通りかかった人が子どもを助けようとしたけれども、火が迫ってきて助けることができずに置いて逃げた。そういうことも、この火がなければ起こらなかったということですよね」(川去さん)
「父親が逃げる途中で同じ中学校の下級生がいて、やけどしているのに何もできなかった。橋を渡ろうとすると、死体が流されているのを見たと」(川去さん)
当時、父親は15歳。
2歳年下の妹を原爆で亡くしています。
「(父親が)歩いていこうとすると水をくれとかいう人がたくさんいるが、自分は何も持っていないから何もできない。その横をやけどしていないで歩いていくのが、すごくつらかった」(川去さん)
26年前に亡くなった父親。
実は、このつらい思い出を封印していました。
「父親からは何も聞いていない。ただ父親は原爆のこと、妹のことを書いた原稿を残しているので、やっぱり書いて残さないとだめだと思う気持ちが働いてたと思う。それを使って話すのは、私に残されたもののひとつかな」(川去さん)