【語り継ぐ戦後80年】故郷の東京から遠く離れた北海道江別市の「世田谷」空襲を逃れて13歳で移住し80年…絶望を生き抜いた先で生まれた絆に93歳男性は「ここが第一の故郷」 #戦争の記憶
シリーズでお伝えしている「語り継ぐ戦後80年」。
8月12日はある場所の名前から「平和の意味」を考えます。
戦火を逃れた先の過酷なくらしを経て、いま願うこととは。
北海道札幌市の隣にある江別市・角山。
ここには東京と同じ名前を持つ『世田谷』という場所があります。
のどかな風景に残るその名は、80年前の夏、戦火を逃れてやって来た人々の物語とともにあります。
1945年。空襲の避難先と食料増産のためとして、政府が募った北海道開拓の移住者は1万7000人に上り、「拓北農兵隊」と名付けられました。
137の町村に入植したうち江別には7月9日、東京・世田谷区から33世帯がやってきたのです。
当時11歳、映画俳優の父を持つ山形トムさん(91)は一家5人で移住してきました。
「毎晩のようにB‐29が爆撃していて、うちの親父が東京にいたら生きていけないからって」(山形トムさん)
趣味の絵で当時の情景を伝え続けている山形さん。
戦火から逃れた先でも過酷な環境が待っていたといいます。
「新聞を信じて(北海道に)来たら全然、家がない。家がなかったら困るから何とかしてほしいと言ったら『原始林で丸太を切って自分たちで建てなさい』と言われた」(山形さん)
93歳の横山民男さん。
13歳で移住して80年、世田谷地区に住み続けています。
「昔はここは全部泥炭だから何も土もない一握りもなかった」
「小豆とか大豆とか実のなる物は全然ダメ」(いずれも横山さん)
与えられた農地は農業には適さない泥炭地でした。
「農家がジャガイモを掘って虫食いがあったものを捨てたのを拾って食べて。何を食べて生きてきたのか思い出せない。よく生きてきたな」(横山さん)