ドラマ「北の国から」の脚本家・倉本聰さんが明かす制作秘話と“変わってほしくない”富良野への思い―再放送が照らす観光と環境の葛藤
「僕が住んでいる場所でなければ書けないでしょ、リアルに。温度だって分からないでしょ。当時は今より気温が大体10℃ぐらい低かったから」
「感じて書いた。ドラマのネタはいくらでもあった」(いずれも倉本さん)
大都会から渡り住んだ一家に自分自身を重ね合わせて訴えたかったこと。
「『生きる』ということと『暮らす』ということがそもそもどういうことなのか。文明の進んだ時代の中で改めて問い正したかった。大人ではなく都会育ちの子どもたちを主役に彼らを自然の中にいきなり入れた時にどういう反応を見せるか。その化学反応が知りたかった」(倉本さん)
しかし出演者やスタッフに北海道での暮らしを理解してもらうのは簡単ではありませんでした。
「大変だった。分からなくて。みんなが地方というものを」
「例えば労働。労働の苦しみを一生懸命やる。そんなに一生懸命やったら労働は続かない。のんびりやらないと」(いずれも倉本さん)
ドラマの撮影に自分の土地や会社を貸し出した仲世古善雄さんです。
「倉本先生が『北の国から』を麓郷で撮影を開始するとき、台本を仕上げたときに『このドラマはひょっとすると知床ブームのように観光客がどっと押し寄せるようになるかもしれないよ』と」(仲世古さん)
「北の国から」は大きな反響を呼びますが、倉本さんの予感は的中します。
「えらいことになっちゃってるって。麓郷で渋滞が起きちゃってるって。だからちょっといいのかな?こんなに乱しちゃって。ごみは捨てるし、観光客は」(倉本さん)
放送当時から倉本さんは葛藤を抱えていました。
「観光客には来てもらい見てもらいたいが汚してもらいたくない」(倉本さん 1998年)