“津別から世界へ”職人技と先端技術が融合する木工ファクトリー 「山上木工」山上裕一朗さん #BOSSTALK
【家具】東京オリンピック・パラリンピックのメダルケースに採用され、世界に技術が認められた山上木工(オホーツク管内津別町)。山上裕一朗社長に全国の中小企業に勇気を与えた「津別から世界へ」の挑戦について聞きました。 BOSS TALK#110
――今日は、この椅子をお持ちいただきましたね。
「ぜひ、みなさんに見ていただきたくて。自社ブランド「ISU-WORKS」です。札幌の木工家、高橋三太郎さんのデザイン。全27種類のうち、お持ちしたのが一番売れ筋の「ZEN」。あぐらをかけるダイニングチェアで、禅をイメージしました」
「田舎では勝ち筋が見えない」 工作機械メーカーに入社し世界各地で活躍
――おうちが木を扱う工場ですね。どういう子ども時代を過ごされましたか。
「地域が山に囲まれ、山や川に行き、自転車で出掛けるなど、外で遊ぶ幼少期でした。おじいさんと、親父が家具を作るメーカーでしたので、ものづくりは、かなり身近だった感覚があります」
――その道に邁進されたのですか。
「『好きなことをやれ』が親父の口癖。田舎で仕事をしても勝ち筋が見えない時代があり、『行くなら東京だ』と勧め、『戻って来い』とは一切、言いませんでした」
――大学は東京ですか。
「芝浦工大で工作機械の研究を始めると、のめり込み、DMG森精機に就職させてもらいました。工作機械の設計を担当しました。世界各地に約1万人の従業員がいて、世界中にお客さまがいる会社。製造と設計の経験が認められ、多くの国に海外出張させてもらいました」
――グローバルから超ローカルへ。ダイナミックな動きには何があったのですか。
「海外に行って自信を深め、調子に乗り、親父を助けられると考えました」
大企業社員の目線で家業を見て「ダサい」 本物づくりを巡り父親と衝突
――津別に戻られて、どうでしたか。
「世界に従業員約1万人もいる会社から従業員20人の会社に入るわけです。『なぜ、こんなことをやっているの』『ダサい』『こんなことをやる必要ないでしょ』。親父の仕事を否定し、リスペクトを欠いた発言が非常に多かったです。他人でないから、遠慮なく言い、すぐけんかになる。自分自身に甘えもあったと思いますね。親父からは『出て行け』『おまえなんて』と、かなり怒られました」
――東京五輪・パラリンピックのメダルケースを受託製造した経緯は?
「とにかく親父に認めてもらいたい思いが強烈にありました。知人から東京五輪のメダルケースの委託製造の公募を知らされ、応募しました。『落札候補となりました』と、メールが届くと、親父は落選だと思い、『見てみろ、落ちただろ。ほら、見たことか』(思っていた通りの結果だ)と。『ちょっと待って。これは落札候補に通ったってことだ』と説明すると理解してくれ、一緒に喜んだのを今でも鮮明に覚えています。ずっと否定的だった親父が『良かったな』とほめられました。まあ、そのときだけですが」