【語り継ぐ戦後80年】”戦時下のアイドル”明日待子_空襲、検閲、戦地の慰問に踊りの伝承…最期まで”舞台”に全力を注いだ99年の生涯 #戦争の記憶
「最初は明日待子さんが教えるっていって面白がって来てくれました」(待子さん)
”明日待子”人気は北海道でも健在でした。
一時は300人ものお弟子さんを取ったといいます。
「車いすでも何でもいいから最後まで力振り絞って舞台を務めるように頑張りましょうねと(稽古を)続けていました」(淑紀さん)
体調がよくない日でも自宅のベッドの上で扇子を振り、稽古をしていたという待子さん。
かつてお弟子さんを指導していた場所に、いまは淑紀さんが座ります。
「母はよく役に立つ、役に立たないと私にいろいろと言っていた。今になってみれば『自分の役に立つ』ではなく『人の役に立つ』なのかなと思ってきた」(淑紀さん)
淑紀さんは日本舞踊明日流の家紋に母への思いを込めました。
ムーラン・ルージュの「風車」をイメージしたのです。
希望をもって”明日を待つ”心―三代でつなぐ
孫の淑豊さん。
3歳のときから待子さんに踊りを習ってきました。
「舞台の上では女優になりなさいというのを小さい頃に(祖母が)あちらで見てくださったときに言われて。祖母が宗家の初代で、母が2代目で。義務じゃないですけど守っていきたいなというのは私の中にもあります」(淑豊さん)
「もう二度と戦争は嫌だと思いますよ。やっぱり私はそういう時代でしたから過ごしてきましたけどだめですね。おっかない」(待子さん)