【語り継ぐ戦後80年】”戦時下のアイドル”明日待子_空襲、検閲、戦地の慰問に踊りの伝承…最期まで”舞台”に全力を注いだ99年の生涯 #戦争の記憶
「明日待子万歳」と叫んだのは満州へと送られる学生たちでした。
「ムーランにも憲兵たちがいた。彼らがすぐに飛んできてパンパンと(学生たちの)頬を打ったり身体ごと引きずり回したりした。『何やってるんだ』と連れて行って待子さんたちはただ茫然としていた」(押田さん)
「万歳」と叫ぶ学生たちに待子さんが客席へ下りて伝えた言葉がありました。
「武運長久をお祈りいたします。必ず戻ってきてくださいね」(待子さん)
「国のために命を捧げる」のが当たり前とされた時代。
なぜこのような言葉をかけたのでしょうか。
「兵士である前に私のファン。みんな戦争で青春を奪われてしまった(と待子さんは言っていた)」(押田さん)
劇団の団員と共に待子さんは満州へ赴き兵士を慰問します。
「(兵士は)もちろんうれしいじゃないですか、国から離れて。手足がない兵士たちが手で拍手することができないので頭や体全体で嬉しくて揺らしていたと待子さんから聞いた」(押田さん)
舞台に立っていたとき空襲に遭い観客と一緒に逃げたことも。
それでも防空頭巾をかぶって見てくれる観客のために待子さんは舞台に立ち続けました。
「私たちはもう滅私奉公でね、一生懸命自分に与えられた芸術でお慰めできればいいと思って一生懸命でした」(待子さん)
1945年、ムーラン・ルージュは空襲でほとんどが焼け落ちました。
”明日流”の家紋にムーラン・ルージュの「風車」
「ご無沙汰しております」(押田さん)
待子さんの研究を続けてきた押田さんを、次女の明日淑紀さんが迎えてくれました。
「まっちゃんが待っててくれました」(押田さん)
この日は命日。
待子さんは2019年7月、99歳で亡くなりました。
押田さんが持ってきたのは2025年2月に東京で見つけた雑誌です。
「戦後2年経ってやっぱりまだ混乱してますよね」(押田さん)
「今だったら大したことはないと思われるかもしれないですけど、艶っぽいもの(写真)を載せてるというのがおもしろいなと思う」(明日淑紀さん)