【戦後80年】北方領土の元島民の記憶 命がけで島を脱出した漁船が大しけに 持ち出した家財道具を海に「命が惜しいか、たんすが惜しいか」元島民を撮り続ける写真家_あえて“白黒”の理由とは #戦争の記憶
シリーズ「語り継ぐ戦後80年」
望郷の念が募る北方領土の元島民と、その記憶を写真に残そうと活動を続ける写真家の戦後です。
北方領土を取り巻く状況は厳しさを増しています。
ロシアのウクライナ侵攻の影響で、ビザなし交流や北方墓参は中断したまま。
船の上からの洋上慰霊は、4年目を迎えました。
望郷の念が募る―北方領土元島民
歯舞群島の多楽島出身の福沢英雄さん、85歳です。
生家はコンブ漁を営んでいました。
「これが、私が生まれた家と家族。立派な家ですよね。コンブ漁を一生懸命頑張ってくれたんじゃないですか」(元島民 福沢 英雄さん)
終戦後の1945年9月、旧ソ連軍が多楽島に上陸しました。
福沢さんが5歳の時でした。
「いきなり土足で上がりこんできて、大事なたんすや仏壇が置いてある場所を鉄砲であさるわけです。本当に恐怖だったし、5歳の私も『殺されるってこんな瞬間なんだな』と感じました」(福沢さん)
家族とともに小さな漁船で島を脱出しました。
「大しけにあい、船が水いっぱいになって沈みそうだったんです。父親は命をあずかっているので大事な米やたんすを海に捨てざるを得なかった。母親が『大事なもの捨てたら、このあと私たちどうするの』と言ったら、父親が『命が惜しいのか、たんすが惜しいのか』と言って捨てるわけです」(福沢さん)
持ってくることができたわずかな家財道具は、根室市北方領土資料館に展示されています。
故郷を奪われた憎しみ―“ビザなし交流”で想いに変化
故郷を奪われた憎しみは大きかったという福沢さん。
しかし、ビザなし交流でロシア人と触れ合ったり、自宅に招いたりする中で変化が芽生えました。
「ロシア人は悪い性格ではないです。陽気で明るく歌や踊りが好きで、私と似たところがあります。自由に行き来できる良い時代が来たら、島に住むロシア人と仲よくしていた方が得策ではないかと考え方を切り替えました」(福沢さん)
5年前、自宅の庭に建てたプレハブ造りの「日ロ友好館」。