旧樺太からの“引き揚げ者” 77年目の証言…「ウクライナ」に思い寄せ 若い世代に体験を語り継ぐ

濱谷 悦子さん著書の手記
77年目の「終戦の日」。いまウクライナでは、ロシアの侵攻によって800万人以上が国外へ避難しています。終戦当時、同じように故郷を追われた日本人がいます。当時の体験を若い世代に伝える女性の思いとは。
濱谷 悦子さん:「真っ暗いときに港に着いたから、どこでどういうふうになっているかわからないけどね。港の先端の方に上陸したと思うんです」
濱谷悦子さん、82歳。77年前、5歳のときに当時日本領だった南樺太から北海道稚内市へと逃れてきました。

当時の南樺太から稚内へ避難した濱谷悦子さん
濱谷 悦子さん:「樺太時代のことは思い出さない。樺太の方を見たくもない」
濱谷さんは2年前、引き揚げの体験を手記にまとめました。しかし、それまで当時の記憶を話したことはありませんでした。

濱谷悦子さんの手記
濱谷 悦子さん:「思い出したくない方が勝ってたということだね。楽しかった記憶が本当に少ししかないから」
当時、樺太では約40万人の日本人が暮らしていました。
濱谷さんが育ったのは旧豊原、現在のユジノサハリンスクです。街並みは碁盤の目のように整備され、近代的な建物もありました。タクシー運転手をしていた父親と、母親のもとに4人きょうだいの二番目として生まれました。

旧樺太・豊原(現ユジノサハリンスク)
濱谷 悦子さん:「道路をはさんだ向かい側には仕立て屋さんがあって、ウインドーにいつもきれいな服がかかっていた。私も大人になったら、きれいな服を着られるんだなと思っていました」
終戦間近の1945年8月9日、当時のソ連が参戦。樺太も戦場となりました。地上戦や船への攻撃で約3700人の民間人が犠牲となり、8万人が北海道へ緊急疎開。
濱谷さん一家も稚内へ逃れることになりましたが、軍などの指示で父親は樺太に残らなければなりませんでした。
釧路公立大学 中山 大将 准教授:「樺太の防衛の担い手にならないような人々を逃がすということですから、妻や子どもは避難する。父親や夫は残るわけですから、数万世帯が家族離散を経験しているだろうと考えられます」
当時5歳だった濱谷さんは、そのときの母親の姿を今でも覚えています。
濱谷 悦子さん:「外に出てしばらく歩いていると、母は父のことがどうも気になるらしくて、『母さん、父さんの所に行ってくるからね。あんたたち絶対ここから動いてはいけないよ』って。子どもが大事か夫が大事かって言われれば、どっちも大事なわけでしょう。父と別れるのも大変だったんじゃないかなって思った」
濱谷さんが手記を書いたのは、当時のことを知る人が少なくなる危機感からでした。
しかし、書くことがはばかられたつらい経験もあります。引き揚げから2か月後、栄養失調で亡くなった1歳の弟のことです。